悠久に舞い継ぐ「御嶽神楽(国指定重要無形民俗文化財)」
辞典類より
神楽は、日本古来より伝わる民俗芸能です。「神座(かみくら)」に神々を降ろし、そこで人が神懸かりとなって舞うことで神の意志を引き出したり啓示(けいじ)や祓(はら)いを受けたりするために執り行われた芸能とされています。
また、古事記(こじき)や日本書紀(にほんしょき)では、天の岩戸開きの際、天売受女命(あめのうずめのみこと)が神懸(かみが)かりして踊ったことから始まったともされ、舞踊という動きの中で神と人が一体となる意味がこめられています。
豊後大野市の神楽の概略
豊後大野市では、古くは鎌倉時代より神楽があったとされていますが、実質的に行われていたことが確認できるのは江戸時代からで、現在の所、出雲の神楽に影響を受け発祥したと考えられていて、大野系岩戸神楽と呼ばれています。
江戸時代後期には、神楽踊りと呼ばれる着面してきらびやかな衣装を着けて舞う神楽があったようで、神主達によって盛んに行われていました。
しかし、あまりに流行し衣装や仕掛けなど派手で贅沢になったことから、質素倹約の号令のもと一時は藩による禁止令が出てしまうほどでした。
この禁止令も御嶽神社神主によって新たな神楽が創始されたことにより、再び執り行われるようになり、神職間で神楽が伝え広められ次第にその輪を広めていきました。
明治維新を迎えると、神職による神楽が禁止され岩戸神楽の奥義は里の氏子達に伝えられるようになりました。里人の唯一の娯楽という意味がより強くなりました。
神楽は、氏子達により神楽座が結成され、それぞれ神楽の流派を唱えるようになり、より広い地域に伝えるようになっていったのです。
神楽には、演目(番組)があり、それぞれの内容は古事記を参考にした神話で構成されています。その総数は33番とも36番とも言われ天の岩戸開の神話を中心にその前後の神話を題材としています。
所作は、全体的に動きが激しいため荒々しく素朴な印象が強いですが、手足を大きく振り地を踏みならす所作からは、荒ぶる神々の存在を感じることができます。
奏楽は、大太鼓(おおだいこ)、締太鼓(しめだいこ)、伏(ふせ)鉦(がね)、篠笛(しのぶえ)の4つによって成り立ち、演目により様々な面や衣装を着けた舞方が神々に扮し神話世界を表現します。
御嶽神楽の歴史と沿革、概要
宝徳元年(1449年)に、豊後国第14代守護大友親隆(おおともちかたか)が御嶽宮を勧請した際に始まってから、約570年以上続くといわれる御嶽神楽です。
しかし、実際に創始期の神楽の実態がどのようなものであったかは類推する資料がないことからはっきりしていません。
ただし、元和三年(1617年)には、「神楽踊(かぐらおどり)」(当時は神事である神楽と神事芸能である神楽踊と分けて称していたようである)が執行されていた記録があります。
御嶽宮の神主加藤家第十八代に加藤長古(かとうながふる)がいます。元文四年(1739年)に生まれ、文化十一年(1814年)に七十六歳で没しました。この長古が現在の御嶽神楽の創始者であるといわれています。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)の末裔である「加藤筑後守長古」は御嶽大神に奉仕し、おごそかに神務を行っていました。
しかし、江戸後期、安永七年(1778年)に岡藩から神仏事簡素令が出たことにより、「神楽踊(かぐらおどり)」の廃絶が命ぜられました。
その際、当時の御嶽神社神主「長古」は、存続を願い出るが受け入れてもらえず、一時神楽は廃絶しました。
ここで「加藤長古」は、心願を発して立ち上がり従前の神楽の構成を大きく変革「工夫」することによって、天明から文化年間には「太神楽(だいかぐら)」「太々神楽(だいだいかぐら)」とよばれる、新しい神楽を生み出しました。
この時に作られた神楽は、幕末から、他社に伝わっていき「大野町」上津神社(あげつじんじゃ)や「朝地町」深山神社(ふかやまじんじゃ)の各神主により受け入れられ、それぞれが流派を唱えて諸派が形成されていきました。
現在では、御嶽流(おんだけりゅう)、浅草流(あさくさりゅう)、深山流(ふかやまりゅう)と異なる流派の神楽であることが認識され、大分県内では「大野系岩戸神楽」と総称されています。
この「長古」が創り上げた神楽は明治以降庶民によって舞継がれることとなりました。ここでいわゆる里神楽となったことで、大分県南部から中部、熊本県阿蘇地方にまで伝播し、大分県を代表する民俗芸能となったのです。
現在でも豊後大野市内で17団体を数え郷土芸能の花形として多くの人々から愛されています。なお、この御嶽神楽中興の祖ともいうべき「加藤長古翁」の墓所は、清川町宇田枝に今も存在し、御嶽神楽座の手により今でも手厚く守られています。
このような、歴史と伝統を持つ御嶽神楽ですが、現在までに至るには幾度もの危機を乗り越えてきています。特に、戦後迎えた高度成長期に端を発する過疎高齢化の波は、神楽の保存継承活動に打撃を与え、一時はその存続さえも危ぶまれる時期もありました。
しかし、当時の清川村あげての保存運動によってなんとか息を吹き返し、御嶽流神楽大会を主催したり大分県総合文化センターでの単独公演を開催したりするなど、今では、県下随一の神楽座と評されています。
また、平成19年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。
神楽の意味
当地の神楽は、五穀豊穣、家内安全などを祈念し祭りの総代が願主(がんし)となって主に神前にて奉納されています。
通常、里山に鎮座する氏神は、年に一度、御輿に乗り御幸行列を従えて里に降り、降り立った氏神は、御仮屋と呼ばれる地に鎮座し里の皆々と対面します。その際に、里人は、酒宴を開き年に一度の対面を喜び一年の無病息災・五穀豊穣を感謝するわけですが、このとき神楽は余興として欠かせないものであり、そのために方々へ伝播していったものと考えられます。
神楽は、神前にて8番から10番程度の演目が奉納されて終了しますが、場合によっては、花神楽(願主(がんし)神楽)といって氏子の中から個人的に特別な目的をもって奉納される神楽もあります。この花神楽(1演目)では、子どもの安全や成長を祈るものや家族の無病息災などの願がかけられて奉納されています。
演目の中には、神(荒神(こうじん)と呼ばれる)と直接掛け合う番組(演目)「柴曳(しばひき)」もあり神の存在を身近に感じる機会となっているようです。
また、神を表す面(おもて)はそのほとんどが、目を見開き、口を開けて歯を剥いた(むいた)恐ろしい表情になっていて、身近に感じるだけではなく神へ対する畏れも同時に感じることができます。
神(荒神)の力にあやかることは縁起が良いとされるため、子供を荒神に抱いてもらう光景がよく見られます。
まつり
神楽が行われる「祭り」は、地元の方々の様々な祈りや願いを昇華させる場となっています。祭りを行うまでにはいろいろなしきたりや催しがあり、地元の方々が総出で取り組んでいます。
特に、御幸行列にお供する、獅子舞や白熊などの民俗芸能は、この祭りがあるために残されてきた芸能であり、当地は今でも大分県でもっとも多くの芸能が残されている地域となる理由となっています。
この「祭り(神楽)」のおかげで、都会にはない深い絆で結ばれた地域コミュニティがあり、共同体として日本古来の農村の姿を今に伝えています。